これは私が考えた世界ゆえ、学問的に証明されたことでもなければ常識からはかけ離れたことでもあることを最初に断っておきます。
佛教では「無」を、特に大乗佛教では重要視していますが、ここでは数学的な「零=0」、「無限大=∞」をベースに話を進めます。
そこで、まず「無」を考える。 零=0 とは、"ない状態"を示している言葉、ないしは数学上の位置関係でもありますね。 そこには1(ひとつ)を加えることが出来ますが、逆に1(ひとつ)引くことは出来ない状態でもあります。 が、数学ではうまいことに−1のことを「虚数=J」として取り扱うことができますが、現実のなかでは出来ません。 つまり最初の状態として「零」存在している数や位置なんですね。
(ここでは、ない(無)状態からどうして有(ある)状態に変化したのかという議論はここではいたしません。)
次に、「無限大=∞」を考えます。 この世界は1(ひとつ)加えることも、減じることも出来るのですが、大勢にはほとんど影響が出ないほどの大数なので、結果は「無限大=∞」のままです。 つまりは「変化なし」という状態と言える状態t考えてください。
0 −−−−−−−− ∞
私たちはこの 「0」の世界と「∞」の世界のどこかに位置していると思います。
皆さんは、この左の「0」と右の「∞」は両極端とみると思うけれども、これが「=(イコール;同値)」と言われると頭の中が変になるでしょう。 しかし、私には同じもののように感じるのです。 うまく説明できないけれども、佛教の教えを研究するとそう感じるのです。
私はこの会のシンボルマーク(アイコン)を考えたとき、黒一色の部分と白一色とを真ん中あたりでくっつけました。 左の黒を「零」の世界、右の白を「∞」の世界としたとき、われわれの住む世界はこの真ん中あたりではなかろうかと。 この真ん中の線を佛教では「相をなす」といいます。 変化と変化のつなぎ目を「相」と捉えてのことです。
図の左側の黒の部分に身をおいたとしよう、すると回り全部が黒一色ですから、"黒"を意識できません。 ちょうどわれわれが空気を意識しないのと同じです。 同じように右側の白の部分に身をおいたとすると、白が見えません。 魚たちが水を知らないように。 黒と白が分かる為にはその境目にいてどちらも見える(感じる)位置でないと分からないのです。